コーヒーの歴史

コーヒーノキがいつ頃から人間に利用されていたかは、はっきりしていない。 アラビカ種の原産地であるエチオピアのアビシニア高原では、オロモ人(ガラ族)が古くから利用していたとする説があり、薬草または携帯食として潰した果実や葉を獣脂とともに団子状にし、用いていたと考えられている。 このほか西アフリカ沿岸では、ヨーロッパ人が1876年に「発見」する以前からリベリカ種が栽培・利用されており、野生種の利用はかなり以前から行われていたようである。
文献上の最初の記録は、575年にイエメンを支配したサーサーン朝ペルシャのもので、「当時のアラビア人はコーヒーの実や葉を煎じて飲料を作った」と記述されている(イエメンはこれに先立つ525年、エチオピアの勢力から侵入を受けている)。
その後もイエメンではイスラム神秘主義修道者(デルウィーシュ)に眠気覚ましとして用いられたが、宗教的な秘薬に留まっていた。 一般民衆に広まったのは、15世紀にファトワーで認められてから以降で、その後イスラム世界全域に拡大した。 現在の主要消費地域であるヨーロッパには、16世紀末にオスマン帝国から伝わった。

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    伝説

    コーヒーの起源にはいくつもの伝説があり、最も有名なのが『カルディ(en:Kaldi)伝説』である。
    9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いの少年カルディが、ヤギが興奮して飛び跳ねることに気づいて修道僧に相談したところ、山腹の木に実る赤い実が原因と判り、その後修道院の夜業で眠気覚ましに利用されるようになった。
    この話の原典とされるのは、レバノンの言語学者ファウスト・ナイロニ(Faustus Nairon)の著書『コーヒー論:その特質と効用』(1671年)に登場する「眠りを知らない修道院」のエピソードだが、実際には時代も場所も判らないオリエントの伝承として記されていた。この話がヨーロッパで紹介されると、コーヒーの流行に合わせて装飾が進み、舞台は原産地エチオピアに設定され、ヤギ飼いの少年にはKaldiというアラブ風の名が与えられた。
    13世紀のモカで、イスラム神秘主義修道者のシェーク・オマル(Sheikh Umar)が、不祥事(王女に恋心を抱いた疑い)で街を追放されていた時に山中で鳥に導かれて赤い実を見つけ、許されて戻った後にその効用を広めた。
    原典は、アブダブル・カディールの著書『コーヒーの合理性の擁護』(1587年)写本で、千夜一夜物語をヨーロッパに紹介したアントワーヌ・ガラン(Antoine Galland)の著書『コーヒーの起源と伝播』(1699年)によってヨーロッパに紹介された。日本で流行したコーヒールンバの歌詞は、この伝説に着想を得ている。
    15世紀のアデンで、イスラム律法学者のシェーク・ゲマレディン(Sheik Gemaleddin)が体調を崩した時、以前エチオピアを旅したときに知ったコーヒーの効用を確かめ、その後、眠気覚ましとして修道者たちに勧めた。さらに学者や職人、夜に旅する商人へと広まっていった。
    信憑性が高い話とされ、ウィリアム・H・ユーカーズ(William H.Ukers) の著書『オール・アバウト・コーヒー』(1935年)でも取り上げられている。

    日本での歴史

    天明年間(1781年 - 1788年)頃に、長崎の出島にオランダ人が自分用として持ち込んだといわれている。
    出島に出入りしていた一部の日本人が飲用したようで、1804年に長崎奉行所に勤めていた大田南畝(大田蜀山人・しょくさんじん)によって記された『瓊浦又綴』(けいほゆうてつ)には、「紅毛船にてカウヒイというものをすすむ 豆を黒く炒りて粉にし 白糖を和したるものなり 焦げくさくして味ふるに堪ず」との記載がある。 嗜好品と言うよりも薬としての効果を期待されており、水腫に効果があるとされていた。これはコーヒーに含まれるビタミンの効用と考えられる。1807年の樺太出兵では野菜が摂取できないことによる兵の水腫病が問題になり、幕府から貴重なコーヒー豆が支給されたと言う。1855年頃、やはり寒さなどで殉難が多かった弘前藩士の為に幕府が薬用としてコーヒーを用意したという記録も残っている。
    開国後の1858年(安政5年)から輸入が認められ、主に居留地の西洋人向けとして横浜の西洋人商館などで少量が輸入されるようになった。やがて、1869年(明治2年)には新聞広告が出されるなど、少しずつ日本人にも広まっていったと考えられる。
    日本で最初のコーヒー店は、1888年(明治21年)4月に上野に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だと言われる。但し、軽食やアルコール類を提供する近代的なコーヒー店が日本で広がるには、1911年(明治44年)、銀座に開かれたカフェー・プランタンや、カフェ・パウリスタ、カフェ・ライオン(精養軒)を待たなければならなかった。普及の背景には、当時進められたブラジル移民政策の見返りとして、ブラジル・サントス州政府がコーヒー豆を10年間無償提供し、全国でパウリスタ系列の喫茶店が開店したことがある。
    その後も輸入量は増え続けるが、1937年(昭和12年)に8,751トンとなった翌年、戦時体制強化により全国珈琲統制組合による軍需物資としての扱いとなり半減、やがて全廃され代用コーヒーに置換された(国が代用珈琲統制要綱を定め、規制)。もっとも一部高級軍人向けに輸入は続いており、敗戦後にそのコーヒー豆を巡って知事が関与した「群馬コーヒー事件」が起きている。
    ふたたび一般の日本人がコーヒーを口に出来たのは、1950年(昭和25年)の輸入再開以降だが、物品税が50%も科せられるなど、高嶺の花だった(輸入自由化は、この10年後)。 その後、インスタントコーヒーを中心に消費が伸び、現在では輸入量で世界3位となっている。

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